Dunhill's Blends:ブレンドカタログとパッケージの歴史
Dunhillのカタログのあまり語られない側面――カートリッジやキャンペーンパックといった風変わりな形式でのタバコの販売、専用ブレンドの処方が帳簿にどう書き留められたか、そして1981年にブレンド作業がベルファストへ移ったことで変わったこと。
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tütün markası, harman tarihi, ambalaj, londra
更新日:
2026年7月26日
Dunhill's Blendsとは、アルフレッド・ダンヒルが1907年にロンドンのデューク・ストリートに開いたタバコ店から生まれた銘柄付きブレンドの総称である。カタログが年ごとにどう拡大・縮小したかはDunhillパイプタバコ:1907-1990で、個々のブレンドの性格と現在の対応品についてはDunhillタバコブレンドの項目で扱われる。本項では、カタログのあまり語られない側面――タバコがどのような形式で包装されたか、処方が帳簿にどう記されたか、そしてブレンド作業が別の施設に移ったときに何が変わったか――を取り上げる。
個数売りのタバコ
カタログのパッケージ面における最初の飛躍は、銘柄付きブレンドよりも古い。1910年に発表された「Self-Filling Tobacco Cartridges(自己充填式タバコカートリッジ)」は、紙で包んだ円筒状に圧縮されたタバコであり、喫煙者は計量して詰める代わりに、出来上がった円筒をそのままボウルに差し込むだけだった。そのため製品は重量ではなく個数で販売された。この仕組みは1910年に特許を取得し、対象範囲は1918年と1920年に拡大された。だが仕組みの欠点は次第に明らかになった。円筒がぴったり収まるかどうかは、ボウルの内径が一定に保たれているか、すなわちパイプが定期的にリーミングされているかにかかっていたのである。カートリッジは第二次世界大戦の頃までカタログに残り、記録によれば、皇太子エドワードとその弟である後のジョージ6世もこの形式を好んだ愛用者に数えられる。
二つ目の革新は前線の事情に応じたものだった。1915年以降、ブレンドは鉛箔で包んだ4分の1ポンドの圧縮ブロックとしても販売され、その外側は布製で、タバコが減っていくにつれて袋としても使えるようになっていた。この「キャンペーンパック」は形をまったく変えることなく1960年代までリストに残った。同じ時期には、部隊向けに Campaign Plug と Campaign Mixture という一時的なブレンドと、大量購入向けの簡素な Campaign Pipe が提供された。
帳簿に記された配合比
デューク・ストリートで顧客ごとに調合された処方は、番号を振られて「My Mixture」という帳簿に記録されたが、記録の多くは生の葉のリストではなかった。処方の多くは、既存のカタログブレンド同士の配合比に、刻み方や湿度についての短い覚書を添えて書かれていた。つまり銘柄付きブレンドは単なる商品というだけでなく、店の作業台で用いられる一種のアルファベットでもあった。1912年に登場した最初の既製三種――ロイヤル・ヨット、キューバ、ダーバル――は、このアルファベットの最初の文字と見なされる。今日「イギリスブレンド」の名で括られるラインナップのほぼすべてが、すでにこの頃にリストに載っていた。東方系タバコを主体とする番号付きの処方、ラタキアを含む配合、素朴なものから熟成させたものまでのバージニア種、そしてシガー用の葉から組み立てられたキューバなどである。この幅広さの代償は、作業が作業台の外にまで広がったことだった。プレス加工、焙煎(トースティング)、蒸気による熟成(ストービング)には設備と時間が必要であり、配合は量り売り状態でも缶詰め状態でも寝かせる必要があった。この表を今日たどれるようにしているのは、ジョン・C・ロリングによる1910〜1990年の間を網羅したカタログの記録である。
カタログの片隅の試み
同社は女性パイプ喫煙者に向けた試みを、少なくとも三度――1920年代初頭、1930年代末、そして1950〜1960年の間――に行っている。最初の二回についてはカタログに具体的な痕跡は残らなかった。ロリングの記録によれば、1954年のカタログには「My Lady's」という見出しのもとに、バージニア種一つと東方系二つの計三つの番号付き処方が掲載されており、そのうち最初のものの傍らには、後にアルフレッド・ダンヒル社の会長を務めることになるメアリー・ダンヒルの名が記されている。同じ記録は、1938年にニコチンを減らした処方 My Mixture 950 が追加されたことも示している。もうひとつの片隅の事業は流通面にあった。1922年に設立された子会社パーカーを通じて、1923年からはアメリカ国外で別のメーカーのブレンドが卸売りされたが、このタバコはダンヒルの名で販売されたことは一度もなかった。
処方がベルファストへ移ったとき
1960年代以降にカタログが縮小した理由のひとつは葉の側にあった。東方系の葉が産地の区別なく一括して販売されるようになったことや、シリアでのラタキア生産が制限されたことは、下位品種に依存する複雑な処方を維持することを難しくした。1960年代末にダーバルがリストから外れ、その後アメリカの棚では1066番という処方でその穴を埋めたことは、この縮小の一例とされる。真の転機は1981年である。ブレンド作業の大部分が、ベルファストの Murray, Sons & Co. の施設に委ねられたのだ。北アイルランドのより柔軟なブレンド関連法規、少数の葉の種類で回す量産型の体制、そして短くなった熟成期間は、缶を初めて開けたときに感じられた重厚な熟成の香りを消し去った。効率よく生産できないほど複雑と見なされた処方の一部も整理された。デューク・ストリートの店は個別調合をさらに二十年ほど続け、その店だけに固有の処方は、ロンドンで小規模に稼働する工房が調製した。新しい世紀とともに、ロンドンでのブレンド作業は完全に終わりを迎えた。
奥付
Ambalaj Yenilikleri:
Self-Filling Tobacco Cartridges (1910), sefer paketi (1915)
Katalog Dökümü:
John C. Loring'in 1910-1990 tarama listesi
İlk İsimli Harmanlar:
Royal Yacht, Cuba, Durbar (1912)
Konu:
Dunhill katalog harmanları
Merkez:
Londra, Duke Street
Harmanlamanın Devri:
1981, Murray, Sons & Co. (Belfast)
関連項目
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リソース
Pipedia — Dunhill's Blends の項目
John C. Loring — Dunhill Blends Appearing in its Catalogs from 1910-1990(カタログ記録)
Smokingpipes — History of Dunhill Tobacco(カタログの年代記)
Wikipedia — Alfred Dunhill の項目(1907年デューク・ストリートの店)
National Portrait Gallery および Getty Images アーカイブ — メアリー・ダンヒルのアルフレッド・ダンヒル社会長就任
Pipedia — Parker の項目(1922年設立の Parker Pipe Co.)
Wikipedia — Murray, Sons and Company の項目(ベルファスト、1810年以来続く生産)
Wikipedia — Latakia (tobacco) の項目(シリアでの生産制限、キプロスへの移行)
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